Vol.16 WDF
World Cup 2005

2005年11月

Australia Perth
WDF(ワールド・ダーツ・フェデレーション)が2年ごとに開催しているワールドカップが9月29日より10月1日の3日間の日程でオーストラリア、パースで開催された。主催国は各国の話し合いによって決定されており、前回2003年はフランス、今回はオーストラリア、次回2007年はオランダが予定されている。毎回、国、場所、会場が違うので、それぞれに個性ある大会が開催されるのが特徴。しかし、個性が良く表現された場合は高く評価されるが、毎回が初回のような面もあるので、多くの難しい問題も合わせ持つ。今回の主催責任者と話をすると準備から開催までの遠い道のりについてとくとくと語ってくれたのだが、その苦労は想像に難くない。実は今回の運営において大きな失敗が数々あったのだが、それはスタッフが精一杯力を尽くしても起きてしまったことなので、責任追及よりも次回への教訓に活かすと誓っていたのが印象的だった。

ワールドカップは長らくダーツに携わる人々が2年ごとに顔を合わせる機会なので、まさに世界規模のダーツの祭典だ。歴史は男子の15回目からも分かるように30年余りを重ね、ジョン・ローやエリック・ブリストロウなどは優勝に名を連ねる常連で、多くの名ダーツプレイヤーはこの大会で輩出された。それ故、世界のトップを目指すダーツプレイヤーにとってはあこがれの舞台であろう。

WDFという団体は非営利団体で、2012年のロンドンオリンピックでダーツが種目として加わることが実現すると、中心的役割を担うことになるだろう。それだけに期待も重なり、ダーツプレイヤーのみならず、世界スポーツファンにとって今回のオーストラリア大会は興味津々なイベントとなった。注目度の高いことは、地元テレビ局、新聞など多くのプレスが詰めかけたことでも良く分かる。英国チームは長い歴史の中で男子が11回、女子が6回優勝と絶えずこの大会で素晴らしい成績を収めており、前回も優勝国。オリンピック開催国として、ダーツ正式種目への夢とプライドをかけてどのような戦いを繰り広げるのか…。
そして我が日本代表はJ.S.F.D.の選考によって男子4名、女子2名が参加したが、果たして世界の壁を破れるのか…。では、WDFが開催する世界最高峰のスティールダーツの舞台「ワールドカップ」を紹介しよう。

大会会場は市内中心部より車で20分ほどのスポーツ施設「チャレンジ・スタジアム」。水泳、体操競技、バスケットボールなど多くのスポーツをエンジョイできる総合スポーツセンター。そのためダーツが開催されている期間も他のスポーツが行われている。毎日、いろいろなプログラムで子供から大人までが通っているのを見ていると、オーストラリア人がスポーツに熱心なことがよく分かる。勿論、ダーツもかなりのプレイ人口がいる。

参加国
Australia、Bahamas、Belgium、Brazil、Canada、Denmark、England、Finland、France、Germany、India、Italy、Japan、Latvia、Malaysia、Netherlands、New Zealand、
Northen Ireland、Norway、Pakistan、Phillippines、Rep. Ireland、Russia、Scotland、
South Africa、Sweden、Switzerland、Turks & Caicos、USA、Wales

スケジュール
9月28日(木)
Ladies Doubles、Youth Teams、Men’s Teams
9月29日(金)
Ladies Singles、Girl’s Youth Singles、Boy’s Youth Singles、Men’s Singles、Men’s Doubles
9月30日(土)
9.00 Youth Mix Final、9.45 Women’s Pair Final、10.30 Youth Girls Final、11.15 Men’s Pairs Final、12.00 Youth Boys Final、1.15 Women’s Singles Final、2.00 Men’s Singles Final、2.45 Men’s Team Final

会場内の雰囲気
会場は普段はバスケットボールなどがプレイされているスタジアムだ。中の様子は決勝のみが開催される舞台と、それ以外のプレイをする場所に大きくカーテンでセパレートされている。真ん中にメインコントロールブース、その前方にドリンクバー、壁側にダーツショップ、そして軽食バーが配置され、無駄がないレイアウト。決勝舞台以外の場所は全て壁側にダーツボードが掛けられ、かなりの人数のプレイヤーが同時にプレイ可能だ。会場内は完全に禁煙、タバコは屋外の指定された喫煙所のみだ。10人ほどが座れるテーブルがたくさん置かれ、プレイヤーは国別に着席して自分がコールされるのを待つ。またプレイしない時は自国のプレイヤーの応援に向かう、という様にダーツトーナメントの風景は特別なものではない。

しかし、やはりトップ選手といえどもプレイヤー達はナーバスだった。ほとんどのプレイヤーが初対面ということもあったが、試合の合間のインタビューなどは遠慮しなければ、という雰囲気に覆われていた。もしプレスルームなどがあれば、会場とは別の場所で、試合に影響しないプレイヤー達から様々な話を聞くことができたのではないか。これだけのダーツ国が一同に集まる機会は非常に少ないため本誌としては残念。WDF主催者側への提言として次回からプレスルームを設けていただければ、と思うのだが。

世界各国より
世界30ヶ国以上の人々が集まっているだけのことはあり、実に表情豊かで個性的だ。こんな国でもダーツをプレイしているのかと驚かされると同時に、本当に世界的なスポーツなのだなと再認識できる。
ところで各国は、このパースという地にどのくらいの時間をかけてやって来たのだろうか?アメリカチームは20時間と言っていたが、南アフリカやブラジルはそれ以上かかるだろう。バハマチームはなんと乗り継ぎも入れて41時間かかったというのだから、この大会への国々の熱い思いが伝わって来る。ダーツには語り尽くせない魅力があるということだ。

Sep 28th パシフィック マスターズ
ワールドカップが行われる前日、パシフィックマスターズが開催された。ウォーミングアップのようなものかと思っていたが、各プレイヤーは真剣そのもの、激戦が繰り広げられた。
現地に到着して驚いたのは、日本からも応援に来ていたこと。また現地に留学している日本人学生などが会場にいたことだ。世界の舞台でプレイする日本チームにとっては、きっと支えになったことだろう。来年はアジアパシフィックがマレーシアで開催されるようだが、より近いのでダーツファンは応援に出向いてはいかがか。結果は www.wdfdarts.com で。

Sep 29th ワールドカップ スタート
9月29日、ついにワールドカップが始まった。大きなアナウンスで次々にプレイするボードナンバーと名前がコールされてゆく。プレイヤーは緊張感をもって、そのアナウンスに耳を澄ます。
テーブルを叩いて「よし、やるぞ」というプレイヤー、唇を噛みしめてじっと天井を見つめるプレイヤー、表情は様々だ。
この舞台のために多くの練習時間を費やし、他人には言えない辛い時もあったのだろう。しかし、結果だけがものを言うスポーツの世界では勝ち負けのみが全てと言っても過言ではない。この舞台まで駆け上がって来たプレイヤーなだけに、そんな事はみんなが知っている。
選考会で負けた相手選手の涙顔も目に浮かぶだろう。きっとこの大会を最後に引退するプレイヤーもいるに違いない。ダーツプレイヤーにとっては目標であり、区切りでもあるトーナメント、それが「ワールドカップ」という大会だ。夢と現実の狭間に位置する至極の舞台に違いない。

各国の戦い
世界から強者が集結しているだけのことはあり、名の知られた選手でも早々と姿を消してゆく。試合は一発勝負なだけに、少しの油断や集中力が持続できないと、アウトだ。
オランダの女子選手が早々と敗れた後、会場の遠く離れた倉庫の横で一人で号泣していた姿が忘れがたい。相手はいるが自分に負けたスポーツ選手の心は、そこに立つプレイヤーにしかわかり得ないのかも…。

日本選手の戦い
日本男子は団体戦では残念ながら、本来の力を発揮できずに敗退したという印象。やはり世界の壁は高かったということだろうか。その中では竹山選手がシングルス戦でオーストラリア代表のサイモン・ウィットロック選手を破った試合は大金星だ。彼は何と言っても現在WDFランキング第5位の選手なのだから。実力が発揮できた時は世界のトップ選手と渡り合えることを証明した。

女子はなかなかの活躍。特筆すべきは、何と言っても大内麻由美選手のシングルス3位という成績だろう。アメリカ選手とのゲームで残り111という場面。1本目ー1、2本目ー60、そして3本目にインブルフィニッシュを決めた時は観戦している全ての人が驚愕した。そして今までのワールドカップにおいて日本選手で最上位成績を収めた。また女子ペアも第3位という好成績だった。

応援風景
ホスト国のオーストラリアの活躍はめざましかったが、応援も凄かった。ワールドカップという檜舞台なだけに、親戚縁者も多いことだろうし、普段ダーツを楽しんでいる仲間も駆けつけていることだろう。特に団体戦では後ろに大応援団が取り囲み、まさに黒山の人だかり。ボードが遠いため双眼鏡でスコアを見る者、拳を突き上げて激励する者、応援の姿は実に多彩だった。オーストラリア人は陽気でフレンドリーな人が多いが、そんなオージー気質が感じられる応援風景でもあった。そんな応援があるとやはり選手のプレイにも磨きがかかるもの、オーストラリアは数々の強豪をうち破り、決勝にまで進出、大役を見事に果たした。

スポーツでは不思議とホスト国が健闘する場合が多いが、それは気候・食事・言葉の問題等の環境の変化が無いことはもちろん、やはり地元の熱い・暖かい応援も大きく影響する。応援がプレイヤーに力を与え、力を得たプレイヤーがさらに乗ってよりパワーを発揮する。この相互作用は時によって誰もが予想できないような素晴らしい結果をもたらすようだ。日本のスティールダーツではかなり静寂が支配する雰囲気が強いが、もう少し、言葉をかけたり、みんなでサポートするような場面があっても良いのかもしれない。プレイヤーにとって邪魔な声援や奇異な罵声でなければ、きっと力になることだろう。それにはダーツ土壌の向上が欠かせない。

左より Simon Whitlock AUS Mervyn King ENG Martin Adams ENG

世界のトップ選手
本誌は縁があって今までPDCのトップランキングのプレイヤーと接する機会が多かったので、取材に行く前から、果たしてWDFの選手はどのくらいのレベルなのかと楽しみにしていた。
現場に行くと初日から、左の英国を代表するプレイヤーのプレイを目の当たりにすることが出来た。マービン・キングのダーツは迫力満点、テイクバックはけっして長くないのだが、的にドスンと力強く突き刺さっていく。リストを柔らかく使いながらダーツを回転させるスローイングはまさに最高級のテクニック、絶えずランキングNo.1を争うだけのことはある。話をする機会があったが、とてもスポーツマンらしく精悍な人柄だ。
最も親しくなったのが英国女子代表、クレアー・バイウォーター選手。とても気さくに自分のダーツ環境などを話してくれた。彼女は現在世界ランキング4位だが、今大会では見事にシングルスのチャンピオンに輝いた。「ダーツが楽しくて仕方がないの、毎日必ず投げるようにしているわ。」という言葉が印象的。

左が クレアー・バイウォーター選手

アメリカの選手はソフト大会で数回会っているので、最初から会話が弾み、最後のパーティーでは一緒のテーブルを囲んでいろいろなことを語った。これからどうやってアメリカのダーツを盛り上げていくのか、どう強くしていくのか、課題は山積みだという。
最後にオーストラリアの選手。どのプレイヤーもフレンドリー、来日した経験もある選手も多く親日派が多い。とにかく今大会のホスト国プレイヤーとしての素晴らしい活躍を讃えると共に、労をねぎらいたい。

最終日は決勝戦のみ
最終日は決勝戦のみが、そのためだけに用意された舞台で開催される。それ以前に敗れた選手は勿論この場に立つことはできない。なんとも華やかな舞台である。会場では他の試合は行われていないので、二人のゲームを全観客が集中して見守る。投げる瞬間は水を打ったように静かだが、素晴らしいフィニッシュをするとプレイヤーはガッツポーズ、観客は大拍手。舞台の向かって右にはボードを大きく映し出す大スクリーン、左にはスコアが表示される。地元テレビ局が詳細を伝えようと、顔をアップにしたりグリップを追いかけたりと大忙しだ。
第15回WDFワールドカップのチーム戦の決勝は地元オーストラリアとフィンランドだ。まさしく歴史に残るような大接戦となった。結果的に9ー8、フィンランドの勝利となったが、試合が終わると観客はスタンドフォーメーションでその戦いを賞賛した。

総合優勝はオランダ

いつの日か、この場に立つ日本選手を目にしたい。どれほど心躍り、胸騒ぐ光景だろうか。まだ先のような気もするし、次回にでも実現するような可能性も否定出来ない…。世界に通用するプレイヤーを育てようと、日本のダーツ界は様々な試みを重ねている。そしてプレイヤー達も少しずつそれに応え始めていることを、このワールドカップで改めて実感した。

パーティー
決勝・表彰式が終わると選手は一時会場を去り、夜7:00よりパーティーが開催された。体育館だった会場はデコレーションされ、プレイヤーたちも見事にドレスアップして登場。壇上にはライブバンドが用意され、食事は完全なフルコースディナー、あちらこちらでシャンパンの空く音も響く。選手たちは親しくなった各国のテーブルを回って挨拶したり、健闘を讃え合ったり、思い思いに楽しい時間を過ごしていた。期間中に恋に落ちた選手もいれば、10年ぶりに再会した選手もいる。そんな多くのドラマを生んだ大会も夜11時頃には終焉を迎えた。

今回の第15回ワールドカップ大会はどんなトーナメントだったのか。大会翌日には世界代表が集まり、反省点・改良点・たくさんの意見を述べ合ったようだ。日本のソフト大会に足を運ぶことが多い本誌としては、それがあまりにも急速に良く改良されているため、この大会の運営には正直疑問を感じざるを得ない。素晴らしい理念の元、これだけの多くの国が結集しているだけに敢えて辛口の批評をしたい。例えば進行についてをコントロールブースの誰に聞いても「I don’t know」では悲しいし、ゲームの時間なども告知された時間に行われない。
ダーツは今や世界でスポーツとして認識され、さらにプレイ人口が増える過渡期にある。その中で世界最高峰のアマチュアダーツの舞台、ワールドカップという大会はダーツ界のみならず他のスポーツ界でも注目されているのだから、ぜひ責任の重大性を認識して欲しい。世界より優れた人々が集結しているのだから、次大会はより完成された大会になるものと信じたい。

一番右が岡田さん

岡田 あおい マネージャー Interview
◆プレイヤーとして、またマネージャーとして、何回ワールドカップに行っていますか?
プレイヤーとしてはワールドカップに4回出場させていただきました。その他アジアカップなども含めて10回位出場させていただきました。マネージャーとしてはワールドカップは今回で2度目で、アジアパシフィックカップに1度同行させていただきました。

◆国際試合としてどんな思い出がありますか?
選手としての思い出は、ワールドカップ日本で初のシングルスベスト8位入賞と女子ダブルス3位があります。マネージャーとしては、今の選手には申し訳ないかもしれませんが両方経験している身としては、マネージャーはあちこちで試合が入るので選手の方が楽かなぁ!?と思います。

◆特に印象に残っている大会は?
1991年のオランダの大会です。この大会から各国国旗を掲げて、ステージに登場するようになりました。この時ガールスカウトの様に制服を統一したボランティアの方々の先導により入場した時の興奮と感動を憶えています。登場前には控え室があり、各国の選手同士でコミュニケーションを取り合い、お互いの健闘を誓い合った場面も思い出されます。また、今をときめくフィル・テイラー選手の初出場であり、優勝したジョン・ロウ選手、エリック・ブリストゥ選手の最後のワールドカップでした。

◆数々の経験の中で、ダーツにおけるワールドカップの意義をどう思いますか?
一国の代表選手として立てる最高のダーツシーン(舞台)と考えます。

◆日本代表の進歩はどうでしょうか?
年々国内の試合を見ていると日本のレベルはかなり上がって来ているように思います。オリンピック等でも見られます様に、日本代表という看板を背負った試合で、日常では有り得ない緊張感があるかと思います。ここで各選手が何をすべきか?が各選手において重要な課題と思います。また我々JSFDとして、選手に課すべく重要な課題と考えています。

◆世界のダーツ環境は変化したでしょうか?
昨今めまぐるしい活躍を見せるオランダ勢を筆頭に、イングランド以外のヨーロッパ諸国選手の台頭が著しいです。また今回日本初の女子シングルス3位の大内麻由美選手やベスト16の竹山大輔選手、そしてベテラン渡部紘士選手、西川ゆかり選手を始めアジアの選手の活躍も目が離せませんね。

◆次のワールドカップに何を期待しますか?
JSFDとしては今回以上の活躍を望んでいます。また、選手も頑張ってくれることと思います。
開催国に於かれましては、敬意を表すると共に速やかな運営とプレスリリースの充実を切望いたします。

◆ニューダーツライフの読者に一言
ダーツは楽しいです。ダーツは難しいです。ダーツは自らの手で世界の場で競うことも出来ます。
JSFDは頑張るあなたを応援します。

アメリカ代表 Stacy Brombergより寄稿していただきました
第15回ワールドカップが私の3回目の『オージー』つまりオーストラリアへの旅となりました。今回が私にとってワールドカップ出場5回目というのは今でもまだ信られません。私が最初に経験したワールドカップは1991年のオランダ大会でしたが、今年は格別なことが私に起こりました。閉会式後のパーティーで、私はまさにちょうどいい時にちょうどいい場所にいる幸運に恵まれました。ディナーの後で『New Darts Life』の益田氏と話をしていて、同誌に2005年ワールドカップについての記事を書いてほしいと頼まれたのですから。あまりにも光栄なことでしたから、短時間で書き上げることには同意いたしかねましたけれども。

ワールドカップ出場は信じられないほど素晴らしい経験です。あのような超一流の大会に選抜され、母国代表という資格を与えられるのは、とても言葉では言い表せません。出場選手の高い才能はさておき、そこには尋常ではない誇りに満ちた雰囲気が漂っているのを感じます。ここで感じる誇りとは、出場できたことへの個人的な達成感、非常に高い能力に恵まれた他のプレイヤーたちと親交を結び、また一方では、母国のために戦う際に感じる誇りのことです。このような誇りを、これまで出場してきたワールドカップで毎回私は感じてきましたし、感じるものだと体験から知っています。

さきほど述べましたように、私の初めてのワールドカップは1991年、1989年にプロに転向して間もなくのことでした。試合経験という意味で私はまだとても未熟で、出場したこととそこから学んだことの両方が、素晴らしい経験となりました。シングルスの結果は大したことはありませんでしたが、女子総合で銅メダルを獲得できる幸運には恵まれました。そして2年後、多少の経験を積んだ私は、アメリカ合衆国で『シン・シティ』のニックネームで知られ、現在のホームタウンでもあるラスベガスで開催された第9回ワールドカップに出場しました。来てくれた家族に私が勝つところを初めて見せられたことから、この大会は私にとって夢のワールドカップとなりました。そしてシングルスでは銀メダルを、女子総合では金メダルを獲得しました。私にとっては、この上ない幸福でした。
私の次のワールドカップは1997年、このときも場所はパースでしたが、開催会場はバースウッド・カジノでした。ここで皮肉なことに、私は世界のギャンブルの中心地に住んでいるためか、当時の私のパートナーのローリ・ベリエールと共にふたつの金メダルを獲得しました。これは、今までのところ紛れもなく私の最高成績です。その後、1999年には南アメリカに行きました。

そうして、これらの過去を経て私たちは、今年第15回ワールドカップを迎えました。ふたたび、パースで。ここはアメリカから見ると『世界最奥の都市』としても知られますが、実際に飛行機で行くと、たしかにそういう気持ちになります。しかし、6年ぶりのワールドカップ出場に、これまで経験したことがないほど私はわくわくしていました!

パシフィック・マスターズ・コンペティションの前日の火曜日にパースに到着しましたが、『時差ボケ』になる暇も許さず、ダーツに集中することにしていました。しかし、ウエスタン・オーストラリアン・インスティテュート・オブ・スポーツに着くや否や、私のプランは変わり、すぐに他の出場者ばかりでなく、彼らの家族、友人、DFA役員、WDF役員といった人々と互いの近況報告となりました。なにしろ皆とは、ここ8年、あるいはもっと長いこと会っていなかったのですから!

私はこのとき周囲の状況から、このスポーツがどれほど広まっているのかを悟りました。プレイのレベルは新たな高さに達しています。ここに至る特権を得るために多大な努力をしてきた全員が強豪なのですから、ワールドカップでは『いいくじ』などありません。そう、それはまさしく『特権』なのです。権利ではないのです。勝ち取らなければならないのです!
勝ち取った後に、本当の戦いが始まります。不安で落ち着かないことはいつものことですが、自分自身に大丈夫だと言い聞かせ、同時に開会式で全員を前にしたステージ上で転ばないことをこっそりと願うのです!このときの自尊心は最高に高まっているものです。出席している誰もが勝者である瞬間なのです!

翌日の第15回ワールドカップ初日、私たちは全員競争相手に戻りました。会場にいる誰もがひとりの相手と戦い、そのまま勝ち続けるという、同じ計画を胸に抱いています。この日は男子チームの試合が最初に予定されており、女性たちは自国の男性たちに声援を送り、女子のダブルスの試合開始まで、できる限りの応援をしようとしていました。女子のダブルスで、私のパートナー、マリリン・ポップと私は、北アイルランド、フィリピン、そして日本を含んだ総当たり戦に入っていました。長年プレイをしてきた経験から、私は新しい『有望』なプレイヤーに注目することにしていました。マユミ・オオウチのことは聞いていましたし、ユカリ・ニシカワとは個人的に何度も会ったことがあり、彼女たちのことはとてもリスペクトしています。このリスペクトは当然のものです。ポップと私は7ゲーム・マッチの最高4ー0でフィリピンと北アイルランドを破りましたが、日本には惜しくも4ー3で負けました。各グループ2チームが駒を進めることができたので、アメリカと日本が次の試合に進みました。
フォーマットがシングル・エリミネーション・ブラケットに変わったため、幸いにも、私たちは再び日本とプレイする必要はありませんでした。日本チームはいいプレイをし、どの対戦相手にとっても難敵になっていました。ポップと私はファイナルまで勝ち上がるために1ゲームずつ、いえ、1ダーツずつ戦いました。アメリカチームとの決勝に進むために、イギリス女子はセミファイナルでカナダに3ー1から逆転しなければなりませんでした。そしてファイナルはすべて、ワールドカップ最終日の土曜日、ステージ上で行われることになっていました。

ワールドカップ第2日は、女子のシングルと男子のダブルス及びシングルが行われました。私は自分がいいプレイをしているように感じました。私の想像するところ、出場者のほとんど全員がそう感じていたようですが。誰よりもまず、自分を信じなければならないのです!どのマッチも『ファイナル』マッチと同じほど価値のあるものでした。誰がダーツを投げ、それがどこに当たるのかで、ダーツの投擲には興奮と失望がありました。何マッチかで、私はドイツ代表のハインケ・アーンストとプレイし、そのマッチはアーンストが勝利の歓声をあげた7ゲームの最後のダーツまでもつれました。私はいいダーツをしましたが、彼女は私よりも1ダーツいいプレイをしたのです。そう、私にできたのは、彼女と握手をし、その幸運を祈ってあげることだけでした。

次に私はアメリカのポップがどうしているか見に行きました。ちょうど彼女がマユミ・オオウチとのファイナル8マッチを始めたところでした。このマッチも、女子シングルスで銅メダルを獲得することになった、ダブルブル・フィニッシュでオオウチが勝利の歓声をあげた7ゲームまでもつれました。プライドと栄誉が私の述べるほど素晴らしいものなのか懐疑的に感じる方は、翌日、ステージ上でメダルを授与されたオオウチかニシカワにたずねてみるといいでしょう。彼女たちは誇らしげな顔を見せていました。おふたりとも、おめでとうございます。これからも私はニシカワに注目していくつもりです。2006年1月のラスベガス・オープンで、あるいは2006年5月にシカゴで開かれるブルシューター・ワールド・チャンピオンシップでまた会えるかもしれませんから。

ファイナルはすべて土曜日に行われ、男子総合のメダルは、金がオランダ、銀がフィンランド、銅がイギリスに、女子総合のメダルは、金がイギリス、銀がアメリカ、銅が日本に授与されました。ジュニアの大会はオランダのジョニー・ネイスとカーラ・モレマが主役となっていました。このふたりも注目すべき『有望株』です。

次回のワールドカップは2007年にオランダで開催されます。私も出場できるといいのですが!それまでの間に、できれば遠からず、これまで長いこと訪れたいと願いながら実現できなかった日本を訪れてダーツをし、個人的にもっと多くの方々とお会いしたいと思います。もしこの雑誌の読者のあなたがアメリカのツアーに出場なさる機会があったら、ちょっとお時間を割いて私に声をかけてくださいね。通訳は見つけられるはずですから。NDLさん、いてくださいますよね!?