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Vol.2 Paul Lim
僕の名を知らない者はいなくなった…

2003年6月号

Paul Lim-2

昨年に引き続き今年も来日されましたが、今回の印象はいかがでしょうか?
日本ではますますダーツブームが拡大して、プレイヤーも増えているね。昨年来日した時に各地で会ったプレイヤーはできるだけ記憶していたつもりなんだけど、今年の各大会では知らないプレイヤーが増えていて驚いてるよ。去年トロフィーをあげた人はもちろんそのままプレイしているし、それに加えて新しい顔も随分と登場した。アメリカでもダーツは盛んだけど、今の日本の状況は正直言ってうらやましいほどだね。
まず言える事はダーツブームの広がりの速さだ。日本ではソフトダーツの効用によってほんの2〜3年前からダーツというスポーツが知られるようになったと思うのだけど、今のこのブームは本当に驚きだ。おおげさではなく、きっと毎日すごい数のプレイヤーが増えていると思う。世界でこのような現象が起きているのは現在のところ日本だけではないだろうか。

次のステップは世界で活躍するプレイヤーの出現だろう。僕はそんなに先の事ではないだろうと予測するよ。野球では大リーグでたくさんの日本人プレイヤーが活躍しているが、野茂選手のように先駆者として成功を収める例があれば、次々とそれに続いていくと思う。溜氏のラスベガス優勝も一つの大きな事例だけど、ダーツにおいて、プロプレイヤーとして成功することは、今後の日本のダーツ界に劇的に変化を与えるだろう。日本は今まさに進化の過程にあるわけで、これほど楽しみな国はないね。僕も世界の大きな大会の決勝で、日本人プレイヤーと戦う日が待ち遠しいよ。
もう一つ印象に残るのは日本人プレイヤーたちの実に楽しそうな雰囲気だ。世界の大会を渡り歩いてきた僕は、それが日本人独特のものだと感じている。六本木大会で各店舗の予選の様子を見に行ったが、周りの観客も大きな声で応援していて、プレイヤーもそれに応えていた。試合なのだから「真剣さ」は大事なことだが、同時に「楽しむ」という精神も重要なテーマだと思う。

ダーツを始めたきっかけは?
僕は元々中華料理のシェフ志望だったんで、21歳から5年間、英国のシェフスクールに行ったんだ。英国というのはご存知のようにパブだらけなので、自然と近くにあるパブに通うようになる。そうすると、どのパブでもダーツボードが掛かってるから、時々遊びで投げるようになったのがきっかけだね。その時はダーツが自分の仕事になるなんて夢にも思わなかったよ。

プロになったいきさつは?
料理学校を卒業してシンガポールに帰りシェフとして働いていたんだけど、ある時友人にトーナメントに誘われたんだ。僕はダーツは少しは上手だったけど、実際自分のレベルがどのくらいかなんて想像もつかなかった。でもそのトーナメントで、シンガポールのナンバーワンの選手を敗ってしまったんだ。無名の選手がいきなりそんなことをしたというので、それは当時大変なニュースとなって、新聞や雑誌に取り上げられたよ。そして1979年のシンガポールオープンに出場して優勝したんだけど、その後はパプアニューギニアに行き、シェフとして働きだしたんだ。

そこでもダーツは続けていたんだけど、ある時パプアニューギニア代表でオーストラリアカップに出場したんだ。そこで強豪のアメリカチームを敗ったんだけど、その時に当時のトッププレイヤーだったジェリー・ウンバーガー選手にアメリカに来るように誘われたんだ。思い返してみると、その瞬間で僕の道が決まったのかもしれない。プロというものに興味もあったし、かすかに自信もあったかもしれない。若かったから何でもできた。まさに新しい人生の挑戦だったよ。

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奥様との出会いは?
地中海オープンに行った時に彼女が休暇で来ていたんだ。彼女の姉が主催者の手伝いに来ていたんでその関係で出会ったんだよ。その後彼女は英国に帰り、僕もシンガポールと別々になったんだけど、ある時僕が思いきって電話したんだ。「シンガポールは良い所だから一度遊びにこないか」ってね。それ以来ずっと一緒だよ。

プロダーツプレイヤーの生活とはどのようなものですか?
カリフォルニアに行ってから本格的なプロの生活が始まったわけだけど、正直なところ家族に支えられた面が多いよ。というより、それが全てだったと言ってもいいくらいだね。

現在16歳と12歳の息子がいるけれど、彼等が生まれた当時、僕はほとんど家にい居ることができなかった。アメリカはものすごく広い国で、そんな国のあちこちで毎週トーナメントがあるから、毎週とてつもない距離を車で移動していたよ。プロというのは健康管理や精神的なタフさなど、ダーツの技術以外にも様々な事が要求されるから、中途半端な気持ちではとても続かないね。

そんな状況で出場して、たとえ予選で負けて意気消沈して帰ったとしても、いつも家族は暖かく迎えてくれた。その心の支えがなかったら、とても続けられなかったと思うよ。家内と息子達には本当に感謝している。だから今は、家族との時間が僕にとっては何にも変えられないんだ。
経済的には恵まれていた方だと思う。平均で毎週500ドル位は稼いでいたからね。当時はダーツブームでもあったし、当時の500ドルというのはかなりの額だったから、その面では幸運だったね。日本にもプロを目指してるプレイヤーがいると思うけど、想像を絶する厳しい世界だという事だけは知っておいてほしい。世界にもプロプレイヤーはたくさんいるけど、トーナメントで生活できるプロはほんの一握りなんだ。ほとんどのプロはホテルをシェアしたりして、貧しい生活をしながら転戦しているんだ。成功する夢も見られるけどリスクも大きい。

ナインダーツの話を。
ジョン・ローの次に僕が達成したんだ。1990年、英国のエンバシー・プロフェッショナルの事だった。それ以降、ダーツにおいて僕の名を知らない者はいなくなったと言っても過言ではないと思う。その時の獲得賞金は9万ドルだったよ。
でもその後、仕事量が爆発的に増えたのにはいささか困惑したよ(笑)。世界各国からの招待を受けてずいぶんとたくさんのトーナメントに伺った。忙しかったけれど世界中に友人もできた。今はそれが財産だと思ってるよ。

ソフトとハードの違いについてどう思われますか?
僕にとっては大きな違いないよ。少し前までは、ソフトはマシーンにダメージを与えないために最高16gまでしか使用できなかったので、投げる際の技術に違いがあったかもしれない。しかし、今は進歩して20gまで耐えられるようになったので、その壁もなくなりつつある。あとは距離感や的の大きさ等の違いがあるけど、結局、精神的な修練という同じ終着点に行き着くんじゃないかな。僕は今回日本で行われたソフトのトーナメントがあまりにも楽しかったので、ソフトダーツを見直したよ。日本人プレイヤー頑張れ!