2015年7月
2015年6月27-28日 本場の舞台がついに日本で実現、大さん橋ホールは興奮の坩堝と化した。
以前から、いつか日本のダーツがもっと進化すれば、日本でPDCのトーナメントが開催される時がやってくると信じていた。そしてその「夢」が現実となった。実際に世界のトップ8プレイヤーが来日し、選ばれた日本人プレイヤーと対戦した。
PDCは世界にファン層を増やしたいので、ソフトダーツ大国の日本でこの興行が成功すれば、さらに世界へ飛躍が期待できるからだろう。試合後に16選手のインタビューをしています。JAPANESE PLAYER INT. FOREIGN PLAYER INT.にてお読みください。
試合結果
残念ながら日本人プレイヤーは初日に全員が姿を消した。二日目はPDCトップランカーのステージとなったが、セミファイナル、ファイナルでは大接戦となり世界を湧かせた。結果としては日本と繋がりが深いフィル・テイラーの優勝となった。日本では特にファンが多い帝王の勝利を多くの方々が堪能したことだろう。 実際、試合後のインタビューでフィルはもの凄く喜んでいた。今までに何回も来日しているが、本当に日本が好きなんだな、ということがよく分かった。
編集長より
12年前日本がまだダーツの黎明期だったころ、日本初のダーツ専門雑誌で定期出版を考えていた。ダーツのことを知りたければ、そのルーツ国イギリスに行けばすべて分かるのかな?と思いたち、老舗ダーツメーカーであるユニコーンにコンタクトをとった。社長であるリチャードと共同経営者のエドワード兄弟は、日本からやって来た僕に快くその門戸を開いてくれた。色々な話を聞き、更には、当時の超有名プレイヤーであり、今は亡きバリー・トゥモローを紹介してくれたのだ。
バリーの住むチェスターフィールドの駅に降り立つと、彼が自らプラットホームに迎えに来てくれていた。多くのイギリス人がそうであるように、彼も自分の街をこよなく愛する、素晴らしい人だった。そして街を案内してもらい、夜にはパブでジョン・ロウを紹介してもらった。
ジョンはパブにかけてあるダーツボードを外してマイボードに架け替え、ダーツの何たるかを一から教えてくれた。今考えると、多くの人がうらやむような経験だったと思う。彼のプレイを横から間近に見て、ダーツのスローイングやグルーピング、飛びやリズムなどを初めて経験したのだ。だから今でも僕にとってのダーツの原点は、ジョンがあの時見せてくれた技の数々なのだ。あんなに狭い20Tに3本のダーツが吸い込まれていくのを見て、「これがダーツなのか!」と感銘を受けた。
翌日はバリーが、当時すでにスタープレイヤーだったフィル・テイラーの自宅に連れて行ってくれた。彼も今よりずっと若くて、2時間にもわたって熱心にダーツの話をしてくれた。
この経験によってダーツの奥深さを実感したし、何より出会った皆がダーツを心から愛する素晴らしい人たちだったことに感銘を受けた。そして帰国した僕はこの「ニューダーツライフ」の出版を決意したのだ。
あれから12年。日本ではソフトが大きく成長して、マーケットも成熟してきた。だが、日本のトーナメントの多くは、今でも参加することに意義があり、プレイヤーとして盛り上がるタイプのものが主流だと思う。
私はイギリスに初めて行った同年の10月、今度はアイルランドのダブリンで初PDCトーナメントを見て、「観る」ダーツを経験した。
ワールドグランプリは煌びやかなステージだった。当時はPDCもまだ比較的緩くて、練習エリアに入って取材することも許されていたので、多くの選手の取材もさせていただいた。だが当時から変わらないものがそこにはあった。選手をはじめ、照明やセキュリティー、宣伝やプレス担当などのスタッフが沢山いて、1000人を超える観客がダーツをエンターテインメントとして楽しめるよう、黙々と働いていたのだ。これを見たとき、PDCは計り知れない可能性を秘めた団体だと直感した。スタッフの努力が集結した華々しいステージは、見る人を魅了して止まない。これが「観る」ダーツの神髄だと思った。僕の直感は当たり、今やPDCは世界をダーツで席巻するようになった。
以前から、いつか日本のダーツがもっと進化すれば、PDCで日本人プレイヤーが活躍したり、日本でPDCのトーナメントが開催される時もやってくると信じていた。そして今その「夢」が現実となった。実際に世界のトップ8プレイヤーが来日し、日本人プレイヤーと対戦。更には本場と同じステージを見せてくれるという「夢」だ。
心配だったのは、「参加型」に慣れている日本人が、今の段階で「観る」ダーツをどこまで受け入れてくれるかということだった。
だが、答えはPDCのテレビ中継を見た方ならもうお分かりだろう。あの画面に映った日本の観客は、他のPDCメジャー大会に来ているイギリス人の観客と全く変わらない情熱で応援に声を張り上げ、彼ら自身も大いにステージを楽しんでいた。日本のダーツもここまで成熟したのかと思うと、ちょっと心が熱くなる。
PDCチーフエグゼクティブのマットとのインタビューは本誌に掲載されているので、是非読んでいただきたいが、その他に最高責任者のバリー・ハーンとも話をさせてもらった。彼も日本での大会をこれからも続けていきたいと、熱のこもった口ぶりで話していた。
確かに、マットが言っていたように100万ドルもかかる大きなイベントだから、テレビの視聴率や放映権、スポンサーなどの問題をクリアにしなければならないだろう。しかし、是非また日本に帰って来たいとPDCも確かな手応えを感じたに違いない。
今年この大会を生で見た方はもうお分かりだろうが、あのステージを一度見たら、その興奮や感激はそう簡単に忘れられるものではない。来年もまた来たくなるはずだ。そんなあなたは、是非多くの友達や家族を誘って、来年また戻ってきて欲しい。そうすれば、感動は感染して広がり、もっともっと多くの人が「観る」ダーツの喜びに触れ、観客は膨れ上がるはずだ。
そして来年こそは、日本人プレイヤーの1回戦突破という悲願を成就して欲しい。選手の皆さん、どうかお願いします!
有限会社 ハード(zac ca) 代表 原田 健より
PDCがやってきた
激熱!感慨深いと言うか熱いものがこみあげてきた。会場に居たお客さんもそう感じた人は多かったのではないだろうか。
【世界の壁】
残念ながら日本の選手は誰も勝てなかった。これがTOPとの壁なのか?力の差なのか?感じ方は人それぞれだろう。Matthew Porter(Chief Executive)がこんな事を言っていたそうだ。「自分が勝つことを信じきれている選手はいなかったのではないか?」と。私は違うと思う。むしろ日本人選手全員が「勝ってやる!」と思っていたはずだ。ただ「憧れ」もあっただろう。「普段と違うシチュエーション」に戸惑った選手もいただろう。しかし彼の目には、そう感じさせたのかも知れない。
【連携】
準備期間が短かったこともあってか、殆どの決定事項がPDC側にあった。チケットの販売方法やドローの方式、PDJサイドとの連携や細かなルールなどなど。もちろん彼らはプロフェッショナルな興行をしてきている。実績も充分だ。今回も準備不足の割には成功と言える興行だったと言える。残念だったのは「え?PDCやるの?いつ?」といった声や「あ、だからタイムライン(Facebookなどのsns)が盛り上がってたのか」といった声が多く聞こえてきたことだ。
PDJサイドの意見も受け入れ、日本的手法などを柔軟に取り入れる事ができれば、もっともっと認知されていたと思う。きっとチケットも完売で観客は増えただろうし、盛り上がりも更に凄かっただろう。逆にPDJサイドはPDCを過剰に意識しすぎたのではないだろうか?「日本ではこうすれば良い」「何故そうなんだ?」と主義、主張をぶつけていかないと彼らは認めてくれないのではないかとも思う。
生意気な意見だが謙虚の美学は彼らには通用しない。むしろ「おとなしい」「主張がない」と見られてしまう。言うは易し、行うは難しだが、異国の者同士の共同イベントが更なる発展を遂げる為には、必要不可欠なスタンスではないだろうか。
【今後】
日本の選手達にとってはとても良い経験になったことだろう。
今年のQスクールで日本人初のツアーカードを手に入れた村松治樹選手。世界に目を向けている山田勇樹選手に並び、それぞれの選手がそれぞれの思いを胸に抱いた。今回対戦した8名の選手達、運営に関わった全てのスタッフ、PDCの雰囲気を初めて体験したお客さんたち、生中継で見ていた人たち、みんなが大きな大きな刺激を受けた。この体験はきっと今後の日本のダーツ業界に大きな影響を残すだろう。