2009年5月
とっておきの人物紹介
日本ダーツ界にはこんな素晴らしい人たちがいた!
ダーツ業界の人たちからよく「I Love Darts」とか「ダーツ界のために」という言葉を耳にする。しかし今回登場していただいたこの二人には、なかなか及ばないのではないだろうか。世界のダーツの舞台に女性独りきりで挑戦したヨウコさん、そして世界のダーツバーやトーナメントを巡ったジローさん。
ヨウコさんはかつてWDFで女子世界ランキングNo.1に輝いたという実績を持つ。そのため多くの会社が彼女の活躍を応援しスポンサードした。代表例として、タイ航空は年間無料乗り放題、大手製薬会社シーブリーズは年間500万円の契約金額(今の相場にするとたいへんな金額!)。世界各国のメディアが競って彼女を取り上げたので、テレビや雑誌、新聞などの取材に大忙しだったそうだ。
ジローさんの世界ダーツ旅は痛快そのもの。トルコでは盗賊に会い砂漠に埋められ、命からがらの逃避行。ハワイでは「ダーツプレイヤーのフラダンス」が気に入られてテレビ出演。当時ビサ取得が困難だったロシアにも赴き、大陸横断鉄道旅も経験している。ある時は現地の女性の家に居候してつい時を忘れてしまい、会社を首になりかけている。
インタビューの後に一緒に食事したのだが、今までにこれほどダーツ談義に花が咲いたことはなかったのではないか、と思うほど楽しい時間だった。
世界の舞台ってやっぱりケタ違いに楽しい…この二人豪快だな。
1980年代、当時のダーツ事情はどうでしたか?
Y まだダーツという言葉自体がよく知られていないような時代で、「私最近ダーツに凝ってて」などと言っても「ダーツって何?」から始まるんですよ。「ダーツっていうのはこういう丸いボードがあって……」って説明しても「洋服のダーツなら知ってるけど」みたいな状況でしたね。
ダーツなんてただ真ん中を狙えばいいだけで、「ルールなんてあるの?」という感じでした。だから余計に「よ~し!」っていう気持ちになって、ダーツという素晴らしい競技を日本中に知ってもらおうと奮起したんですよね。
J 僕がダーツを始めたのは1966年ですが、まさに日本でダーツが始まった頃ですね。前号のインタビューで登場したブラッキンさんも知り合いで、彼が日本で毎日のようにいろんな活動をしてるのを聞いてたし、よく一緒にくっついて行きました。リーグ戦をやってる所へも出かけていったりしましたね。
その頃ダーツの大会というと米軍基地でやることが多かったので、当時の日本人にとっては普段入れない場所へ行けるのが嬉しかったんですよ。美味しいものが安く食べられて、ローストビーフとかビールもたくさんあるしね。それもあって80年代にすごく盛り上がったんですよ。
Y そういえばそうですね。大会というと横須賀や横浜の米軍基地を利用することが多かったですね。あとはアメリカンクラブとか。
J そうそう。僕はそこで働いてたんですよ。
やっぱり外国人が集まる場所が多かったってことでしょうか。
J もともと六本木のパブっていうのは外国人ばっかりでしたからね。あの頃カンタス航空のスチュワーデスやパイロットが、大使館でダーツ投げてたんですけど、僕はよくそこに呼ばれて行きました。それが終ると皆で六本木のバーニー・インやアンクルマイシャルに投げに行きました。
アンクルマイシャルっていうのはアイリッシュ・パブなんですけど、そこにいたシモザワ・エイコさんという人が日本選手権で始めて女子のチャンピオンになった人じゃないかな。その後彼女は確かダーツの本を出したんですよね。
Y そうですね。私も読んだことあります。
J それからリーグ戦が始まったんですけど、大蔵省のチームや、ユニコーンがダーツを卸してた関係で東急ハンズのチームなど、6~7チームありましたね。中にはダーツに懲りすぎたあまり、自分の部屋を壊してスペースを作った人なんかもいたんですよ。
当時、ダーツやフライトなどの道具を入手するのに苦労しましたか?
J 苦労しましたね。まずダーツそのものが今と全然違いますよ。60年代はフライトが羽でシャフトは木でできてました。今の人たちには考えられないでしょうね。
Y 私が始めた80年代でもその面影は十分に残ってましたね。
J それでみんな26グラムとかの重いのを使うんですけど、あんな重いのをボードに向かって投げるんだから、危ないんですよね。もし頭に当ったら大変ですよ。
Y グルーピングなんてしないでしょ、はねのけられちゃって。
ボードも針金を使ってて狭かったですよね。
J でもあれは長持ちしていい物なんです。今のはすぐだめになっちゃう。
そうやってだんだんダーツにはまり始めて、世界への挑戦が始まるわけですね。
Y 私がダーツにはまった理由というのは、私が思ってたダーツのイメージと、実際のダーツとのギャップが大きくて「なんか面白そう」と興味をもったからなんです。
というのは、私も始めはダーツというのは真ん中に当てればいいものだと思ってたんです。で、ある時他の人が投げてるのを見たら、その人は端にばっかり当ててるんです。だから「なんて下手な人なんだろう」と思って「どうして端っこばっかり狙うんですか?」と聞いたんです。それで、その時初めて501のルールなどを聞いて、ダーツというのは真ん中に当てればいいわけじゃないんだと知りました。「ダーツってルールがあるんだ!」って驚いて、すごく興味を持ったんです。
それから、私は子どもが二人いるんですが、子育てをしてるときに、なんでもいいから日本で一番になれるものはないかと探してたんです。当時はウィンドサーフィンやテニスもやっていましたが、ウィンドサーフィンやテニスで日本一になるのは相当大変じゃないですか。私にとっての一番というのは、日本選手権や世界選手権、アジアカップなどがあって、自分の中でスポーツとして認められるようなものでなければダメだったんですけど、ダーツにはその全てがあったんです。
ダーツなら家の中でも練習できるし、当時レストランやパブを経営してたんですが、そこでもし自分が強くなったらダーツというものを広げられるとも思いました。
ちょっと話がそれますが、私は高校時代からモデルをしてて、モデルとして有名になりたかったり、他にもいろんな夢を抱いて兵庫県から東京に来たんです。それなのに気が付いてみると全部中途半端に終ってて、子どもの教育をするのに「ちゃんと最後までやりなさい」と言えない自分がいたんですよ。それに気づいたときに、何でもいいから自分で誇れるものを最後までやり遂げたくて、それなら大きく日本で一番になろうと思った時にダーツに出会ったんです。
当時のダーツで日本一だったのはオノ・トシコさんでした。学生だった彼女の練習時間を聞くと4時間だというので、彼女を抜くために私は8時間練習しようと決めたんです。その頃は子育てと主婦業と商売もあり、時間的にもきつかったのですが、何とか頑張って8時間練習を続けました。
でもそんなに練習してるのに、トーナメントでは負けちゃうんですよ。当時はオープン戦で男女別もレベル分けもなくて、いつも一回戦からものすごく強い人とばっかり当たっちゃって……。その時は「なんでこんなに練習してるのに勝てないの?何て不運なんだろう、ダーツなんて面白くない」と思い始めましたね。
そんな時、今年中に日本チャンピオンになると、次の年のワールドカップに日本代表で行けるというのを知ったんです。これは絶対勝たなくちゃならないと思いましたね。それで、8時間で負けるなら12時間練習すればいいじゃないかと、睡眠時間2時間で12時間練習を始めたんです。
「私は人一倍のろいので、人一倍練習しないとダメなんだ」と自分なりの理論の元に、練習時間にフォーカスしていったんです。そうすると試合会場に行っても自信があるんですよ。「私は誰よりも練習してるんだから、負けるわけがないじゃない」と、どんなに強い相手でも動じない自分がいたんです。そうやってメンタル的なものをクリアにして落ち着いてきたら、だんだん勝てるようになりました。それからは怖いもの知らずで一気に勝ち続けました。
当時は男女が分かれていなかったのに優勝してたんですか?
Y 強いプレイヤーがたまたまどっかで負けちゃうと、決勝戦で勝たせてもらったり……。それからしばらくしてレディースが分かれたんですけど、ほとんど優勝してましたね。
世界への挑戦が始まったわけですが、どのような国に行かれましたか?
Y 最初はハワイのロイヤルハワイアンで、そのときは2000人くらいの人がいました。ロイヤルハワイアンといえば、イギリスやアメリカからプロがたくさん来て賞金も出る大会だったので、そこに行くだけでもすごいなと思ったんですよ。
J 1982年で一番人気のある大会だったんです。世界中からプレイヤーが集まってきたんですよ。
Y その時は私なんてほとんど無名だったんですけど、世界選手権で優勝したニュージーランドの選手に勝っちゃったんです。
そうやって勝ち残っていくとだんだんギャラリーが増えてきて、一試合終って振り向くと黒山の人だかりができてるんです。その時ものすごく気持ち良かったんですよ。
「人に見られるのって気持ちいい、観客がたくさんいる中で勝つのってなんて気持ちいいんだろう」と心から思いましたね。
私はこのときにダーツの本当の面白さがわかったんですね。いかに人がたくさんいる中で集中できるか、どれだけ相手にプレッシャーをかけられるか、そういったダーツの奥の深さに気がつきました。
この後、海外の試合に出場することが多くなりましたが、一番行ったのがアメリカ、そしてオーストラリア、イギリスのマスターズにも出場しました。
特に印象に残ってる試合はありますか?
Y 心に残ってる試合としては、アメリカのロサンゼルスの大会です。これはとても大きな大会で、イギリスからもプロの選手がたくさん来るんです。このときはオープン戦だったんですけど、イギリスのプロの選手をやっつけたらどんなに気持ちいいだろうかと思いましたね。確か1986年で、まだダーツを始めて2~3年だったんですけど、結局プロをどんどん負かせて、シングルスで3位になったんですよ。
J この試合は僕も行ってたんですけど、「ヨーコ!ヨーコ!」と一人で応援してましたね。そうしたら周りもだんだん真似をしだして、みんなで「ヨーコ!ヨーコ!」の大声援でしたよ。この時はみんな賭けをしてたんで、結構もうけちゃいましたね(笑)。
Y そして、エリック・ブリストゥの恋人と噂されていた、当時とても人気のあったプレイヤーがいたんですけど、彼女とダブルスを組んで準優勝しました。
とにかくあの超エキサイティングなアメリカの試合で、あれだけの観客の前で、イギリス人プロに勝ったというのは、私にとって忘れられない試合なんです。
あとはオーストラリアのマスターズです。前回準優勝ですごく悔しい思いをしたので、今回は絶対優勝する気持ちで挑んだ大会でした。2位シードで出場しましたが、このときは相手が勝手に自分自身にプレッシャーをかけてしまって、負けてくれた感じでした。
J ヨーコさんは外国で投げてるほうが強いんだよね。
Y そうなんです。外国で投げてるほうが私らしい気がしますね。楽なんですよ、いろんなしがらみがないから。
J 僕もそうでしたね。外国に行くと気持ちがオープンになっちゃう。アメリカなんか行くともう嬉しくて、試合会場を走り回ってましたからね。
Y ベルギーのイッペルという街のトーナメントにも何回か出場して、その後にオランダに寄ってそこの大会にも出場して、大きなパブのトーナメントにも出たり、本当にダーツ3本持って世界中を回ってましたね。あっちこっちにお友達もできて、現役で投げてる頃は本当に楽しかったです。
お一人で行かれてたんですか?
Y そうです。英語なんてそんなに話せなかったけど、ボディランゲージで十分でしたよ。
その頃スポンサーがついていたということですが、どのような企業だったのですか?
Y タイ航空とか、ブリストルマイヤーズという製薬会社で『シーブリーズ』のロゴのユニフォームでした。こういう企業がスポンサーになるのは後にも先にもないんじゃないでしょうか。
その時の契約金額というのはどのくらいだったんですか?
Y ボーナスとかいろいろあったんですけど、ブリストルマイヤーズだけで当時年間500万円位でした。タイ航空は、年間6~7回の海外遠征の際に、すべての航空券が無料でした。場合によってはビジネスクラスのこともあったんですけど、当時の航空券は高かったので、とても助かりましたね。
タイといえば、現役時代タイの大会では、ダブルスもシングルスもチームゲームも、毎回出場するたびに優勝してたんですね。今から8年くらい前に仕事で主人とタイのパタヤに行ったんですが、パタヤはダーツが盛んなので主人に付き合ってもらって、たくさん人が溢れてるパブに行ったんです。店の中を覗いても特に知ってる人はいませんでしたが、ちょうどトーナメントをやってたので、私もダーツを借りて参加したんですけど、そこで優勝しちゃったんです。そうしたら誰かが「もしかしたらヨーコでしょ?」って声をかけてくれて……。結局優勝賞金はそこでみんなで飲んじゃいました(笑)。
J パタヤは僕のホームグラウンドなんですよ。休暇になったらパタヤに遊びに行ってました。ダーツがなくても楽しい所なんですけどね(笑)。
12時間も練習するほど投げられてた現役時代、ダーツについて最も重要だと思ったことは何ですか?
Y そのときに感じたのは、ダーツは技術じゃないということですね。集中力が90%で技術は10%程度じゃないかと思いました。細かいことをいったらいろいろありますが、重要なのは自分のことをどこまで信じられるか、それにかかってくるんじゃないでしょうか。そして、自分を信じるためには練習しかないと思いました。
アレンジにしてもそうですね。私はあまりアレンジが上手なほうじゃなかったんですけど、アレンジを身に付けるためにも練習しかないです。大事なのは、アレンジによってどれだけ相手にプレッシャーをかけられるかですからね。一番いいのは、こっちは普通に投げてるんだけど、相手が勝手に自分自身にプレッシャーをかけてくれるということ。なぜ相手がプレッシャーにかかるかというと、それは自分から出る波動というか、オーラみたいなものかなと思いますよね。
私は練習べたなんです。現役の時からパブで投げる試合は素人に負けるくらいへたでした。なぜかというと集中してないからなんですよね。単なるウォーミングアップみたいなもので……。やっぱり練習もただやるだけじゃなくて、いろんなことを想定しないとダメだと思うんです。負けた時の悔しさとかを自分の中で感じてないといけないですね。そういうことの繰り返しです。ダーツはものすごい集中力が必要なので、メンタル的なものが一番重要だと思いますね。
当時使われてたダーツはレーザーダーツのゴールデンイーグルだということですが、どうしてそれを使われたのですか?
Y 私はダーツそのものにはこだわらないタイプで、最初に投げてたのはなんでもない24グラムのものでした。私はスナップを効かせる投げ方なので、重いダーツをバンバン強く投げてた感じですね。
ある時、業者の方から「これは高くていいダーツだから、ヨーコちゃんちょっと使ってみて」ともらったのがゴールデンイーグルだったんです。その時は『高いダーツ』『いいダーツ』というのに魅力を感じてしまって使い始めたんですけど、それ以来虜になってしまいました。やっぱりバランスもいいし、グリップを握った時の感触がすごく良かったんですよね。それは高いから良かったのか、値段に関係なく良かったのかはわからないんですが、その後もずっと勝ち続けましたし、結果として私にピッタリのダーツでしたね。
ワールドランキングについてお聞かせください。
Y 1987年に、ワールドランキングがついている海外の試合に6回チャレンジました。結果は6回とも優勝して、WDFランキングのトップになりました。
J その時はいろんなプレスに取り上げられたんだよね。
Y そうですね。中でもタイオープンは世界ランキングがかかってる大事な試合だったんですけど、そこで優勝したときは新聞にも大々的に取り上げられたし、いろんな雑誌にも載りましたね。
でも、ワールドランキングのトップにはなったんですけど、いろんな問題があって宙ぶらりんの状態になってしまったんです。結果的に2位で認められたというのかな、まぁいろんなしがらみがありますからね。
そこまで極めたのに、ダーツを投げなくなったのはどうしてですか?
Y 私はものすごくダーツが好きで、ダーツを投げてさえいれば幸せな人間だったんです。でも、日本のダーツが盛り上がってくる中で、ただのプレイヤーだけではいられなくなってきたんです。今だから言えることですが、周りの利権争いに巻き込まれたというか、いろんな人間関係もあったりね……。
何かと面倒なので、じゃあ日本で投げるのはやめようと、その後も海外では投げ続けてたんですけど、日本に帰ってくるとなんか気持ちが萎えてしまうんです。なんでダーツっていうものをもっと純粋に捉えて、日本のダーツを世界レベルにまでもっていこうとしないのかと思いましたね。私はダーツの選手でいたかったんですけど、そうもいかない事情があって、まぁはっきり言ってしらけたんですよね。
全く投げなくなったのはいつ頃なんですか?
Y 今から8年くらい前にワールドカップの選手を決める日本選手権というのがあって、そこに出場しないかという話をいただいたんです。そのときはだいぶブランクもあったんですけど、私はやっぱりダーツが好きなので「久しぶりに投げてみようかな」と出場したんです。
それで、どんどん勝ち進んで結果的に準優勝しちゃったんですが、決勝戦までいったとき、私が勝つと周りがしらーっとしちゃうんですよ。まるで私が勝ってはいけないように周囲がしらける。そのときに「あぁもうこういう日本のダーツ界はおもしろくない」と、それからぴたっとやめました。
J 僕から言わせると日本のダーツ界というのは考えが小さいんです。小さな団体で固まってしまって周りを見ようとしないんですよね。
Y 私もジローさんも一匹狼的なところがあったので、日本ダーツ界独特の羊の群れ症候群みたいなものが合わなかったんですよね。だから日本で投げるとしらけちゃうんで辞めました。こんなこと言ってるとうらみつらみが出てきちゃいそうで困っちゃいますね(笑)。
ちょうどソフトが出始めた頃にダーツをやめたわけですが、その頃は仕事が乗りに乗ってたので、今度はその仕事で一番になろうと思いましたね。私は一点集中型なので。
今はどのようなお仕事をされているのですか?
Y 健康産業に関わっています。ダイエットを主力とした製品で小売業や卸業も兼ねています。今から一年ほど前から日本全国でダイエットカフェをオープンし、現在9店舗を展開しています。ダイエット教室も主宰していますよ。一人でも多くの人に健康になってもらうことと、社交の場としての活用など地域貢献も目的としています。
これからの夢はなんでしょうか?
Y 今仕事を頑張っている理由は、仕事が成功したら、海外の試合にファーストクラスで行きたいと思ってるからです。『お金がないけどダーツが好き』じゃなくて『お金もあるしダーツも好き』という優雅なダーツができたらいいなと思うんですよ。
J どっちに転んでもダーツは好きなんだよね。
Y そうですよ。なんとか日本でダーツを広めたいと、だったら選手で頑張って、日本にもこういう選手がいるんだとわからせたくて頑張ってきたんですから。井の中の蛙はいやだったんです。もっと世界にチャレンジしたい、日本のダーツを世界に知らしめる架け橋になりたかったんです。
J 僕もそうですよ。僕はダーツは下手だけど、日本にもこんなプレイヤーがいたんだと世界の人に知ってもらいたくて、あっちこっち行きました。だから今でも、いろんな国にダーツを通して知り合った友達がたくさんいますよ。
ジローさんは60年代から一人で勝手に世界中に行っては、いろんな大会に参加されてたわけですけど、そんなプレイヤーはきっとジローさんくらいしかいないでしょうね。そんな中で何かおもしろいエピソードはありますか?
J 1982年のロイヤルハワイアンですね。この大会ではビーチで豚の丸焼きをしたり、大きなステージがあってそこでフラダンスをしたりしてたんです。ステージで踊ってたらいつの間にか僕一人になっちゃって、踊り子さんたちからフラダンスを習う羽目になったんですけど、これがすごくうけちゃったんですよ。
で、ダーツプレイヤーでフラダンスが面白いというんで一躍有名になっちゃって、新聞やTVにも出たんですよ。ワイキキを歩くと「ジロー!」と声をかけられたり、本土から来てたミスとデートしたりと、頭の中に花が咲いたような状態でしたよ(笑)。
84年の同大会では日本のシチズンがスポンサーになって、僕はシチズンから出場したんですが、この時はバリー・トゥモローからサイン入りで表彰状をもらったんですよ。「この大会をこんなに楽しいものにしてくれた、日本にこんなプレイヤーがいて楽しかった」とね。
Y こういうことをあんまり偉そうに言ってはいけないと思うんですけど、こういう人がいて歴史を作ってくれてたんだということを、今のダーツ界の人にも忘れないでいてほしいですね。
J みんなもっと大きく見ればいいんですよ。ダーツは世界共通なんだから、もっとオープンにしてもらいたいですね。
Y 本当にもっと純粋にダーツを楽しんでもらいたいですね、いろんな意味で。そうするともっといい選手が出てくるんじゃないでしょうか。日本選手は純粋にダーツを楽しむことと、それをオーガナイズするスポンサーは、その選手をちゃんと食べさせていけるようにすれば、もっといい選手がいっぱい出てくると思いますよ。日本人はまじめでシャイだから、いろんなチャンスを周りが作ってあげるのが大事じゃないでしょうか。
分裂してるのが一番良くないと思います。ダーツ界は昔から分裂する傾向が強いんですよ。日本にはいい選手がたくさんいるんですからもったいないですね。
J 今の日本人プレイヤーは、ソフトなら世界に出ても負けないくらいの実力がありますよね。ホームで大きな大会やったら、間違いなく優勝すると思いますよ。
Y ダーツ界の石川遼くんみたいな人が出るといいですね。
J でも、日本人の中には、海外に出ると力を発揮できないプレイヤーも多いですね。英語が苦手なのもあるかもしれないんだけどね……。
Y ダーツって素晴らしい競技だと思います。今の仕事に関しても、ダーツでとことんやったので、それと同じ思いで取り組みましたね。ビジネスの世界にも通じると思います。
J ダーツは戦いだよ。真っ白な戦い。
Y 面白いですよね。投げてそこに行って抜く、という動作だけで相手にプレッシャーがかかるし、抜いて帰ってくる間にもプレッシャーがかかる。それはそれは面白い駆け引きですよ。
J 非常にトリックがあるから面白い。僕なんか外国人とばっかりやってるから、間にジョークを入れたりしながら駆け引きしてるよ。
Y 私はまったく正反対、とにかく真剣勝負ですから。だって勝つために海外行ってるわけだから、絶対勝たないと。
J そういえばバリー・トゥモローにはずいぶんカモられたな。でも僕が知ってるダーツプレイヤーの中では彼は一番素晴らしい人ですね。
Y こんな話をしていると、また投げたくなってきますね。もう一度練習してみようかしら。でもやるからには絶対負けたくないし……。皆さん、楽しみにしてくださいね。