No.24 デジタル媒体でも続きを楽しみにしております

2022年9月

なんだかんだ僕は色々な情勢も結局は毎日くだらないことを言って過ごし、笑い、泣いたりして毎日を過ごせている。世の中のあり方は変わってしまったかもしれないが、僕は何も変わらない。毎日ダーツを投げていたから今も毎日ダーツを投げている。

海の向こうでは戦争をし、毎日何万人の感染者が出ただのと言うニュースは何を変えたのだろうか。はたして何かが変わったのだろうか。鬱勃としたものがない中で、それが急に湧き上がることもないし、何をやっても捗りきらない自分はずっとここにいる。それでも僕は毎日程よい幸せと、程よく機嫌を保って毎日を過ごせているから何か足らないということはない。唯一の不満といえば定期的に腰が痛くなることと毎月の支払いを考えることであるが、そんなものは「生きる」という空でいえば流れていく雲のようなもので大した問題ではない。ただその雲の厚さが尋常じゃない時がたまにある程度だ。

日々のうねりゆく変化の中で僕はできるだけそのうねりに逆らわないように逆らう。矛盾しているのだけれど、つまり強いものは柔らかいという持論だ。柔らかいものは形を持たずに常に変化し、環境や周りに合わせていくがそれは決して弱さではない、強さだ。一つのものを極めるということは僕らの世界においては至極当然で目指すべきことではあるけれど、それが中途半端であれば、ただの固く脆いものだ。ひとつの正解しか仮定していない状況で想定外の問題が起きた時にどう対処し、対応していくかが今も昔も社会を生きていく上ではとても大切なことなんじゃないかと最近思うようになってきた。
これはダーツを考えていく中で「毎日同じなんてことはない」ということを前提にし始めた時からだ。元中日ドラゴンズ監督の落合博満さんの本を読んだ時に「今のフォームをどう作ったかなんてわからない。毎日の変化の中で最良の選択をした結果、作り上げられたものだから」的なことが書いてありノートに書き殴ったことがある。

それまでは、ただひとつのことが正解なんだと悪い意味で頑固な考えで取り組んできたものだったが、大きく考えを変えて取り組むことによって、ダーツの状態は上がっていたのだ。思い返せば中学生の時から度々読み返している、司馬遼太郎著「竜馬がゆく」の中でも竜馬は「何かこれだということなんかないのだ」とその考えの柔軟さに惹かれたものだ。ただその中でもきちんと大切な軸を持つことはアイデンティティを形成していく上で大切だ。
僕は基本的に昔からのものを大切にしている。新しいテクノロジーは僕の理解の範疇を超えてこの瞬間も僕らの生活を変える何かが作られている。しかし、僕らはいつだって過去に学んできた。自己啓発本では「前をむけ」的なことが書かれているかもしれないが、僕は「後ろを見ろ」と言いたい。何千年と僕らの生活に根付いているものやDNAに刻まれているものは必ずある。文化だって宗教だって、言語だってそうだ。戦争がよくないということだって、過去にとんでもない下手をしてしまったことから無意識に感じるだろう。

そういう無意識下の日本人らしさをもっと大切にしなければならないのだ。それはつまり「変化に対応できる」ことと「変化に惑わされないこと」だ。ものすごくマクロなダーツという視点から大きな社会という生活を見ても僕はそれを当てはめる。何を変化に任せ、何を個性で守るか。そういう訳のわからないことを今日も徒然なるままに思い耽る。

「ソーシャルネットワーキングサービス」SNSは今や私たちの生活に欠かせないものとなっている。現実世界とは別にSNSの世界でどう自分を作り上げていくかを常に人は考える。若い人もそうでない人も、どう思われどう評価されるかが現代を生きるための一つの自己安堵感に繋がるとみな感じているのだろう。もちろんその中には評価をするものがある一方で批判をするものもある。Aの考えに対して「いやこれはAではなくてBだろ」と平然と書き込む。もちろん明らかな事実の間違いにはそういった指摘はある。しかしこれは批判ではなく「指摘」だ。SNSというのはひとつの社会のように思えるが、僕はそこは完全なる自己中心の世界で、そこには自分しかいないものだと考えている。とかいう僕も様々なサービスを使い、時には不特定多数の人に向けて情報を発信している。しかしこれも自分が選んだ情報を誰に求められるわけでもなく勝手に「こんな情報欲しいだろう」という気持ちから書いているので自己中心的な行動だ。僕は常々言ってきたことがある。それは「SNSは思考の一方通行」であるということだ。僕は常に思考を投げつけて終わっている。

だからたまにある「私はこう思う」的なコメントなどには心底辟易する。僕にとってみれば相手が道を逆走してきて、かつ窓から訳のわからないことを吐き捨てる悪質ドライバーと同じだからだ。たまにどうしよもなく時間を持て余して、どんな人なんだろうとアカウントを覗くと、非公開だったり顔も公開してなかったりと、誰が顔もわからない奴の言うことを聞くと思っているのかと本当に残念な気持ちになる。そんな気持ちを抱くことが、無駄なことかもしれないがSNS社会に生きている僕にとっては、こういった経験でSNS免疫をつけていくしかないのだ。なぜならこの世界から逃れることはないからである。認知の歪みやニヒリストへの憧れはもしかすると誰しもが持つ潜在的な心理かもしれないが、そういった他人に対する付き合い方が実際に人と会うことがなくなってきた今、相当に下手になっているのかもしれない。もちろんそういった敵意帰属バイアスには劣等感だったり、他人を攻撃することで自分の存在意義を感じられるなどの原因もあるのだろうけれど、そこにSNSという社会が関係していることは容易く想像できる。

なぜならSNSはそういったことをした際に負うリスクが現実世界と比べて極端に低いからだ。そもそも僕はどんなことであろうと人の数だけ考えがあり、その数だけ真実があると考えている。それぞれの立場から物事を見ることができればひとつの正解など存在しないからだ。「正解などない」と言う立場に立つことができれば僕らが実際に生きている社会同様に一定の秩序とモラルを持ってSNSの社会でも生きていけるのではないだろうか。
もちろん僕自身も完全に俯瞰で捉えられているかと言われればそうでないかもしれない。
それに段々とSNSの論破論者たちと付き合うのも疲れてきた。著名な人の言葉を借りれば「それはあなたの感想ですよね」で終わらせたいのだ。
きっと現実世界でも毎日の仕事で疲れているはずなのに、よくこんなにエネルギーがあるなぁと感心する。そして同時にそんなめんどくさいことを自分に当ててくれて感謝の気持ちすら覚えるのだ。あるSNSでは自慢ばかりが目立ち、あるSNSではイイね目当ての写真が並び、あるSNSではディベーター気取りが幅を利かせる。SNSの世界で自分を偽るほど現実世界の自分にがっかりされることを自戒するのと、結局自分も皮肉な奴なんだなと、これだけ書いて思いながらNDL最後の紙媒体コラムを終える。

編集長益田さん、長年お疲れ様でした。デジタル媒体でも続きを楽しみにしております。