2016年3月
人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある。
だから、たとえ負けても勝っても、男子は男子なり。
勝負をもって人物を評することなかれ。
【慶応義塾創設者・福澤諭吉】
1943年第二次世界大戦終盤、大日本帝国は自国の兵力不足を補うため、高等教育機関(現代の大学)に在籍する成人学生を在学中であるにも関わらず徴兵・出征させた。
従来の兵役法では高等教育機関の学生は二十六歳まで徴兵を猶予するとしていた。だが戦局悪化と共に徴兵猶予の対象は狭まり、修業年限を三ヶ月・九ヶ月と短縮した。そして遂に1943年10月21日、高等学歴者(旧在学生)達は東京・明治神宮競技場から壮行会を以て兵士として戦地に送り出されていった。
「学徒出陣」である。
学ぶことを望む者にも容赦はなく、徴兵制度は規定を満たした国民に兵役を義務付けるものであった。
入営後は戦地へ赴く志願者は少なく、その殆どが学歴を糧に将校や下士官に出征していた。しかし更なる戦況悪化により、激戦地へ配属されたり慢性化する補給不足から栄養失調や疫病で絶命する者、最期は特別攻撃隊(特攻)へと配属される等、出兵した学徒達は次々に戦死者となった。
出兵前、明治神宮での壮行会にて学徒代表生はこう宣言した。「生等もとより生還を期せず!」…我々は命の限り戦い抜く故に生きて帰らぬ所存である、と。
現代、徴兵制度は廃止された日本で学ぶ自由と未来の選択は限りなくある中、輝かしい将来を目前にして歩みを止め、戦うことに憑りつかれた者がいる。
岩橋咲弥プロ。
1992年4月2日生まれ、二十三歳。東北大学在学4年生、だが卒業・就職を間近に昨年8月より休学。その理由は単純明快「ダーツがしたかった」と。
一介の大人達なら嘲笑うであろう。誰もが羨む高学歴まで後僅かだというのに、まるでそれを排他せんとする奇怪な選択。ダーツという競技でプロとして戦いたい、ただそれだけのために…
3年前、岩橋プロは二十歳の時に当時の居住地宮城県でダーツと出会い、友人達との遊びの一環でありながらその技術力は群を抜いていた。それからダーツに魅了され続けた岩橋プロは、宮城県最大の繁華街国分町のダーツバーに通うようになり、2013年同店主より目をかけられプレイヤーとなった。同時期に近隣のトーナメントにも参戦するようになり、同年11月当時21歳でJAPANプロライセンスを取得した。
しかし在学中の学生という立場と生活環境などもあり、プロツアーに参戦したのは2013年に1戦、2014年に2戦のみ。その数試合で岩橋プロは「緊張していたわけではないが、力が出し切れなかった」と自身を振り返った。
東北大学を休学したのち、単身上京し本格的にダーツのプロとしての道を歩み始めた。
そして2015年10月末日、ステージ13福島戦。この時私は偶然にも会場に足を運び、それをこの目で観ていた。
岩橋プロが初めて辿り着いた領域、JAPAN16との入替え戦。対戦相手は首都圏でも高名な格上の猛者。偶然にも岩橋プロにとって数少ない顔見知りの選手の一人で対戦歴もあり、その圧倒的な強さを良くも悪くも知っていた。それでも臆する事無く必死に喰らい付き、フルレッグの末に勝利した。
その後の試合でもトッププロとのワンエイス、またもフルレッグで勝利し結果はベスト8、自身も俄かには信じがたいと言った程の大健闘だった。
その日の私の脳裏に焼き付いた岩橋プロの姿は無地の黒シャツに黒スキニー、無造作な黒髪と純朴な顔立ち。その姿を一見しただけでは、その他大勢のプロ選手の中では到底記憶には残りえない筈だった。けれども私の五感は過敏に反応し、無意識に彼を追い求めるようになった。
この青年はバケモノだ!
日本のダーツという競技の世界はまた、こんなバケモノを生み出してしまったのか…
色鮮やかなゲームシャツに数多のスポンサー名を得意満面に飾る、まるでデコレーションケーキの様な選手たちが蔓延る今、頭の天辺から足の爪先まで漆黒に貫く悪魔の申し子、岩橋咲弥プロ。
若さ故の荒削りな技術ではあるが、鉄壁の精神力が叩き出すその闘争劇は見事!デコレーションケーキたちも圧巻の快進撃を無作為に魅せつける、末恐ろしいバケモノ。
上京して数ヶ月、首都圏では名を知らぬ者はいない程の逸脱した若手選手となり、先輩選手たちからは好敵手として一目置かれる存在にもなった。
彼の理性は今も尚、然るべき将来への揺らぎを抱え惑い続ける。彼の心魂は戦う喜びとその「覚悟」を背負い魑魅魍魎と化し生き抜いていく。
戦火の中で咲き誇れ、咲弥。