No.17 「メンタル」に縛られる

2021年7月

「ダーツはメンタルのスポーツだ」そんなようなことをNDLの読者の方なら、一度は目にしたことがあるだろう。
大事な場面での一本が入ると「メンタルが強い」外せば「メンタルが弱い」と表現している場面も幾度となく目にし、耳にした。
僕は「メンタル」という言葉が大嫌いだ。
これはトラウマ的な経験が基になっているが故に感情的な表現になってしまうが、ある試合でフルレグの最終場面まで一進一退の攻防が続き、クリケットのブルを4本決めれば勝ちだった。
1本目はインナーブル、2本目はアウターブル…3本目はブルの外だ。相手はブルを1本決めれば勝ちであった。
そんな勝負が終わって掛けられる言葉は「メンタルだな」とか「大事な場面でもいつもどおり投げられるメンタルを身に着けないと」など想像通りのものであったし、負けた直後はどんな言葉であれ受け入れられるものでもないのだが、その「メンタル」と言う言葉だけは次の日もその次の日も頭に深くこびりついていた。

ある日、何故それほどまでにその4文字の言葉に不快感を示すのだろうと考えると単純なものであった。自分が今までどれほどダーツを投げてきたのだろうかを考える。
胸を張って日本で最も腕を振っていた時期を過ごしたとの自負もあるし、量のみに着目して体のことや疲れ、理論など無視した所謂スポ根的な練習も長く続けていた。誰にも負けないぐらい練習を重ねていたのに、たった1本外れただけでそのすべてを人は評価し、安易で無慈悲な言葉をかけてくるのだ。

もちろんスポーツは取り組みや努力が評価されるべきではないし、結果第一主義のまま今後もあり続けてほしいと思っている。逆を言えばその何千時間がたった1本で救われるのもスポーツだ。しかし僕自身はそんなに外的部分も内的部分も強くはない、むしろ弱いのだ。
がむしゃらに目標に向かって走り続けていても疲れることはあるし、途中で休むこともある。その中で掛けられる言葉に対してそれを無下にすることはできないし、そうしようと思えば思うほどそれは心にあり続ける。
そうした内面的なものがいつしか身体にも影響し、シンプルに考えていた「ダーツ」そのものを複雑化してしまう。だからこそ僕は以前にメンタルコーチと契約し、メンタルのことを教えてもらっていた。本を読みアスリートの思考を学ぶこともしてきた。関連がないと思われる本でもどこか1ページでも活きる箇所はないだろうかと情報を求めた。

そしていまぼんやりと見える見解では各分野が説く「メンタル」とはつまり「無」なのだ。それはスポーツの言葉で言えば「ゾーン」であるし「集中」である。ビジネス本の言葉を引用すれば「マインドフルネス」だろうか。日本人なら聞いたことがある「禅」の思想でも当てはまるだろう。もちろん、僕自身が選び得た情報であるからその選択肢が分別なく様々なとは言えないだろうがいままで得た情報から導き出した。
というよりもその「無」を探していく事が自分にとってのスタイルだと直感的に感じているのだ。様々な媒体でこのようなことは説かれているし、現代人はとくにその「心のコントロール方法」などには敏感だろう。

つまるところ「メンタル」なんてものはその言葉が独り歩きし、実態の無いものを僕らが自己都合でそう呼んでいるだけで、物事に良悪もなく起こった事柄に対してもそこに分別や計較できるものなどない。そこにはただその結果と事実しかないことを知れば、いちいち心が揺れることもないだろう。
ダーツでもそうである。01ゲームでS1に3本入ったとしても、それは事実として「3点」が持ち点数から引かれただけであり、それに対してどう思うかはプレイヤーの勝手なのだ。事実だけを受け止め、なにも判断や比較をしなければどのような結果であれ心は落ち着き平常心のままゲームをすすめることができる。
ただダーツというものはほとんどのデータを数字として見ることができる。今の自分のレベルやその時のスタッツなど。限界値があるものに対してやはりそこに近ければ「良い」という判断をするのはごく自然なことだ。

すなわち現代社会における相対性の中でどう絶対的な自分を持てるのかが「無」いわゆるメンタルの部分において重要なことなのである。
そうすれば自ずと自分自身に対しても過剰に期待することもなく、「只、今、此処」にあるものだけが現実なのだと感じられるようになり、その自分で、どのようにして目の前のボードと向き合っていくかを感じられるようになるのではないだろうか。

実体験として僕は生活の中に「坐禅」を取り入れている。起床後と帰宅後、朝と夕に30分ほど毎日行う。その後に練習をしているのだが、やはり坐ってみるといかに自分と向き合う時間を作っていなかったのかを知ることができる。また「無」になるということがこんなにもできないものなのかを感じることもできる。
しかし、その時間の中で自分の浮ついた気持ちを丹田(臍の下あたり)にすとんっと落とすことによって今までとは違う練習の感覚を得ることができた。

これはなにもそうしろとか、そういういった話ではなく「メンタル」という言葉が溢れかえっているこのダーツという世界でいかにその「メンタル」と日々向き合っていないかということだ。人は自分との対話の時間を持つことすらしようともせず、他人に対してはそういうものが大切だよと説いてくる。そういった軽い言葉やありふれた言葉に流されず、どんと腰を据えて構えていられることもまた何気なしにはできないことだろう。

人の心というものは何千年も前から様々な形で伝えられてきた。その時代の変遷で確かに科学的な進歩や文明が発達してきたことは誰しもが感じるところだろう。しかし今尚、昔と変わらず「心」を調える為に修行をし鍛錬する人たちもいる。僕達の周りのモノは進化しているが、果たして人間自体は進化しているのであろうかと考えると、昔からの言い伝えが今も心に響くということはその本性は変わらないのだ。だからこそ日々の中で自分と向き合い、自分自身を知ることで「メンタル」という言葉に縛られないようにこの時代を過ごしていくことが大切なのである。